ひじき氏の、へっぽこ・せのび・ダイアリー

日々のあれこれを綴っていく雑記帳です。役に立つ話は出てきません。きっと。でも読んで不快になることは書くまいと思っています。毒にも薬にもならないけれど、クスリとなれば幸いです。 2021年は読書メモ増量に取り組むゾ!

2020年12月


 2020年も残すところあと数十分である。この1年を振り返る記事を書こうと思っていたのだが、紅白歌合戦を見ていたらそれどころではなくなってしまった。もうこのまま空気に流されて、大雑把なまとめだけ書いておこうと思う。

 コロナの影響で、外出制限など縛りの多い1年だったが、個人的には良い1年だったと思う。特に、同人誌の執筆・編集ができたのは本当に良かった。自分がずっとやりたかったことに真剣に取り組めたからだ。やりたいことを全力でやるのは、他の何物にも代え難い経験なのだなと、しみじみ思う。

 同人誌があったからこそ、インプットもアウトプットももっと頑張ろうと思ったし、物事を進めるにあたっては自分できっちり決断しなければならないとも思えた(なんて、紅白に流されながら言うことではないのかもしれないけれど)。2021年は今年の気付きを活かして、よりよい1年にしたいと思う。

 それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

1231日 22時30分)


 前回の記事で、2020年のマイベスト本として『読んでいない本について堂々と語る方法』を紹介した。ただ、2020年には小説も色々と読んでいるので、マイベスト小説の方も紹介しようと思う。

 2020年のマイベスト小説は、前野ひろみちさんの『満月と近鉄』である。

満月と近鉄 (角川文庫)
前野 ひろみち
KADOKAWA
2020-05-22




 今年5月に文庫版が発売されたばかりの本書は、奈良を舞台にした4つの小説からなる短編集である。というわけで、4作それぞれについて、大まかな内容と個人的な推しどころを紹介しよう。

※以下、各作品のネタバレをがっつり含みます。「それは困る」という方はこちらでお引き返し下さい。

◆「佐伯さんと男子たち1993

 中高一貫校に通う帰宅部の男子3人が、佐伯さんという同級生の女の子に次々に恋をし、告白し、惨敗する様を描いた作品である。基本的には、冴えない男子中学生の淡い恋をコメディタッチに描いた青春小説といってよい。3人の男子たちは、中高一貫校に通う中学3年生で、成績は平均くらいで部活は帰宅部という設定になっている。要するに、何の特徴もないうえに受験競争に揉まれることもない、本当にぼんやりとした少年たちだ。そんな彼らが、慣れない恋に落ち、何とか思いを伝えようとアタフタし、モジモジする様子は、可愛らしくもあり、同時に可笑しくもある。2人目に告白する大井戸君がモジャ髪の中に隠したラブレターを鹿に食べられてしまうシーンは、気の毒だが笑わずにはいられなかった。

 しかし、この小説はただの青春小説では終わらない。3人の男子たちを次々に落としてしまう佐伯さんはどこか謎めいた雰囲気を纏った女子として描かれているのだが、最後に主人公の「僕」が告白しようとする時、不思議なことが起こる。佐伯さんを待ち伏せしようと雨の中飛火野に行った3人は、そこで突然異様な気配に包まれる。次いで不意に草原が明るくなり、3人の目の前を白い鹿が通り過ぎていく。再び正気に返った時、彼らの目の前にずぶ濡れの佐伯さんが現れる。つまり、「佐伯さんと男子たち1993」という作品は最後で突然ファンタジー小説に化けるのだ。ただし、それまでに伏線が用意されているからだろう、驚くほど自然に変化する。

 佐伯さんは男子たちの告白を断る時、決まって「ごめん、ムリやわ」という。怪現象の直後、彼女は「僕」に対しても「ムリやわ」というのだが、そこにはそれまでにない寂しさや哀しさが滲んでいる。あれ? という余韻を残して、物語は終わる。

 個人的には男子たちの奮闘ぶりが推しどころだが、この作品のある種の異様さを決定づけているのはやはり最後の部分だと思うので、紹介ではここに文字数を割かずにはいられなかった。

◆「ランボー怒りの改新」

 645年の奈良・斑鳩宮に到着したベトナム帰還兵ランボーが、戦争指揮官・蘇我入鹿を憎み、結果的に大化の改新を成し遂げるという、ハチャメチャ歴史ファンタジー小説である。元ネタになっているのは大化の改新という歴史上の出来事と、ベトナム帰還兵を主人公にしたアメリカのアクション映画『ランボー』シリーズ(正直、全然知らない)だが、「なぜその2つを合わせようと思った!?」というほかない。

 ところが驚くべきことに、この作品にはかなりの説得力がある。その源泉は、登場人物同士の関係性だ。まず、主人公・ランボーと蘇我入鹿の間には、前線で戦う兵士と前線を知らない指揮官との間の対立がある。帰還兵を腑抜け呼ばわりする入鹿に怒ったランボーは入鹿の家臣をその場で惨殺してしまい、追われる身となる。次に、蘇我入鹿と中大兄皇子・中臣鎌足の間には、歴史の教科書で習う通りの対立関係がある。特に、鎌足と入鹿との間には学問所の同窓同士の闘争関係がある。それが政治の実権を巡る対立に結び付いているという形で、入鹿と改新側の対立は入り組んでいる。更に、中大兄皇子と中臣鎌足との間にも、鎌足は皇子に取り入って理想の国づくりを目論んでおり、皇子は権力闘争の中で鎌足の頭脳を利用しているという、ドライな関係がある。

 問題は、改新の立役者となるランボーと、改新側の中大兄皇子・中臣鎌足との関係である。改新側は、入鹿とランボーの戦いを傍観しながら、自分たちの入鹿暗殺計画を実行していく。この計画は実行の段階で頓挫するのだが、そこへランボーが現れ入鹿を殺す。これを見た中大兄皇子は、謀反を起こそうとしていた入鹿をランボーが倒したと称し、ランボーを労うことで自身が入鹿を討ち取ったのだという事実を作ってみせる。

 ここにあるのは、改新側がランボーを利用するという関係だけである。その関係を更に読み解いていけば、駒として前線に送られただけの一兵卒であるランボーと、知略を駆使して権力闘争を展開する改新側との間に、一種の対立構図が浮かび上がってくる。いや、むしろそれは、ランボーという翻弄される駒と、入鹿・改新側という駒を使う権力層との対立であるというべきなのかもしれない。

 このように、「ランボー怒りの改新」という作品は、その設定のムチャクチャさにもかかわらず、登場人物間の計算された人間関係によって、説得力をもって展開していく。そして、その中にはあらゆる形で緊張・対立関係が存在するので、とにかくスリル満点の作品になっている。4つの短編のうち、この作品だけ前情報を持っていたのだが、実際に読んでみると想像以上に面白かった。

◆「ナラビアン・ナイト 奈良漬け商人と鬼との物語」

 生駒山麓に隠居する老人のもとを、『千一夜物語』を研究する若い女性が訪れ、老人の希望に応じて“奈良風”に『千一夜物語』を語って聞かせるという話である。作品の大半は彼女が語った物語からなっており、鬼と魔法が暗躍する現代の奈良を舞台にした摩訶不思議なファンタジー小説とでもいうべきものになっている。

 語られた物語の概要はこうだ。ある勤勉な奈良漬け商人が何気なく吐いた梅干しの種が子鬼に当たり、子鬼は死んでしまう。怒った鬼は奈良漬け商人の命を奪おうとする。数日後、身辺整理を済ませた商人が鬼との約束の場所に着くと、そこへ鹿と犬と猿をそれぞれ連れた3人の老人がやって来る。商人から話を聞いた3人は、鬼と談判し、これから自分たちがする話が面白ければ商人の命を3分の1ずつ救ってやって欲しいと頼む。そして彼らは、自分と連れてきた動物とにまつわる話を始めるのである。

 物語の中核をなすのは、3人の老人の話である。そして、初めて読んだ時、僕の心を捉えたのもこの部分だったはずである。ところが、肝心な部分に限って記憶が全く残っていない。おそらく夢中で読んでいたために咀嚼し忘れてしまったのだろう。ただとにかく心震えるファンタジーだったことは間違いない。

 僕はファンタジーを得意としない。異世界もののようなコテコテのファンタジーは敬遠しているくらいである。ところが、「ナラビアン・ナイト」はぞくぞくするくらい面白かった。それはきっと、鬼と魔法が暗躍する現代奈良という、現実とファンタジーの交錯地点で物語が展開していたからなのだろう。そしてまた、鬼や魔法の使い手ではなく、一般人の視点で物語が進んでいるからなのだろう。特殊な能力など持ち合わせていない一人の読者として、現実世界の延長線上で展開する摩訶不思議な世界に翻弄されることに、ある種の快感を覚えたというわけだ。

 「ナラビアン・ナイト」は終わり方もとても良い。時は夕刻。話を終えた女性研究者に生駒の老人が礼を述べる。すると女性はもっと面白い話があると切り出す。老人が興味を示し、女性は一息ついて次の話を始める。作品は終わる。しかし話は始まったばかりだったのだ。妖しい魅力に満ちたラストである。

 個人的には、一番衝撃を受けた作品だった。『満月と近鉄』を2020年のマイベスト小説に選んだのは、この一作のためといっても過言ではない。そして、そういう作品に限って、僕は上手く紹介できない。

◆「満月と近鉄」

 本書の作者である前野ひろみちさんの自叙伝という形式の作品である。高校卒業後、前野さんは進学せず、生駒山麓のアパートに籠り作家修行を始めるが、一向に筆は乗らない。ある日、近くへ散歩に出た前野さんは、遊歩道の先にあった茶屋で佐伯さん(!)と名乗る一人の女性と出会う。秘密の会合を重ねるうち、佐伯さんは前野さんの文章を批評するようになる。前野さんは佐伯さんの評価に応えようと創作に励み、4編の小説を完成させる。それはつまり、これまでに紹介した3つの作品と、「満月と近鉄」と題されたもう1つの作品だった。

 4つの作品が完成した日、佐伯さんは前野さんを遊歩道の途中にある自邸に招き入れる。しかし、その日を境に佐伯さんは姿を消す。後日前野さんが佐伯さんに連れられて行った場所を訪れると、そこには茂みしかなかった。その後前野さんはさっぱり筆が乗らなくなり、作家修行をやめて大学へ進学し、実家の畳屋を継いだ。以上の話に続けて、すっかり畳屋になった前野さんが佐伯さんのことを思い出す20年後の後日談があって、この作品は幕を閉じる。

 一見すると、この作品は本書『満月と近鉄』の誕生秘話を綴った文章のようである。しかし、佐伯さんという謎の女性の存在により、この作品もまた、「佐伯さんと男子たち1993」と同じような意味でファンタジー小説としての性格を帯びる。とても不思議な気持ちにさせられる作品だ。ただ、夢を追い、逡巡し、何かを掴みながら、挫折していく、そんな青春の甘く苦い一コマを爽やかな筆致で書き出した文章であることは間違いない。

     ◇

 以上、『満月と近鉄』に収められた4つの短編小説について、大まかな内容と推しどころをそれぞれ紹介してきた。ネタバレ御免とは断ったものの、些か内容を書き過ぎたような気もする。ただ、僕が書きたいことを書くには、どうしてもある程度内容に踏み込まざるを得なかった。改めて、ご容赦願いたい。

 さてここで、本書の作者・前野ひろみちさんに関する噂に言及することにしよう。これがまた面白いのである。

 文庫カバーに記載された著者プロフィールによると、前野さんは「奈良県生まれ。高校卒業後、作家を志すも挫折し、大学卒業後は家業の畳屋を継」いだとある。しかし、その作品が同人誌に発表された当初から、前野さんの正体についてはある憶測が飛び交っているという。本書の解説を書いた作家・仁木英之さんによると、その憶測とは「あの作家なのか? 夜は短いのか?」というものである(本当に「夜は短いのか?」と訊いた人がいるとしたら、言うほうも大概だと思う)。

 仁木さんは噂を否定している。更に『満月と近鉄』には、前野さんと「夜は短い」人の対談が収録されている。テキストをそのまま信じるなら、前野さん=「夜は短い」人説は妄想だったということになる。

 しかし、事はそう単純ではない。出身地が一致している、作風が似ているなど、噂を裏付ける状況証拠は数多い。一同人作家の作品が商業ベースで文庫化されるのは異例すぎるという意見もある。が、それ以上に注目すべきはやはり、「夜は短い」人の動きだろう。

 5月に『満月と近鉄』が文庫化されるや、「夜は短い」人は早速ブログでこの本を紹介した。自身の対談が載っているのだから、これだけなら不思議はない。しかし、それから10余日後、氏は再びブログを更新した。そこには「謎の作家・前野ひろみちの正体に迫る」と題された怪文書のリンクが貼られ、「賢明なる読者諸氏はこんな胡散臭い文章を読んで時間を空費してはならない」と書かれていた。

 この文章を字面通りに受け取る人間はまずいないだろう。どう考えてもこの方は楽しんでいる。憶測が飛び交っていることを楽しみ、エサを蒔く。而して憶測の真偽については言及せず、真相をウヤムヤにして、憶測を加速させる。その様子を読んでいると、やはり何事かを思わざるを得ない。

 ここで、もう1つの注目すべき事実を紹介しよう。「夜は短い」人が噂の種を蒔き続けていたちょうどその頃、前野ひろみちさんがインスタグラムを始めた。前野さんのインスタは、数日おきに1度畳の写真がアップされるというもので、いかにも勤勉な畳屋らしい内容であった。ところが、「夜は短い」人の新刊『四畳半タイムマシンブルース』の発売が近づいた7月下旬、前野さんのインスタグラムに突然、4枚の畳を四辺に並べ、その間に正方形の畳をはめ込んだ四畳半の写真が出現した。その四畳半の上には、「夜は短い」人のシンボルマークとも言うべきダルマが置かれていた。これを『四畳半タイムマシンブルース』の販促アカウントがツイッターに投稿、さらにその投稿を「夜は短い」人がリツイートしたのである。

 なんだこれは。なんだこれは! なんだこれは!!

 というわけで、前野ひろみちさんの正体を巡る噂は、当事者が戯れに乗っかる形で加速を繰り返し、今に至っている。しかし既に述べたように、噂の真偽を確定する決定的な証拠は未だ出てきていない。証拠が出てこないことこそが証拠であると言っても詭弁にはなるまいが、一ファンが憶測であれこれ断定するのはやはり控えるべきであろう。

 以上の一連の事態を、僕は劇場版名探偵コナンのタイトルになぞらえて、「迷宮の四畳半(グラスルーム)」と呼んでいる。

     ◇

 と、本気で取り合うべきでない問題に突っ込んだ首を引っ込めたところで、2020年のマイベスト小説の紹介を終了したいと思います。

 ところで、マイベスト本・マイベスト小説の記事を書きながら、そういえば今年読んだ本って他に何があったっけと振り返ってみたのですが、すると結構沢山の本を読んだことすら忘れていたことに気が付きました。折角読んだのに忘れてしまうのは、やっぱりちょっと勿体ないですね。来年はもう少しマメに読書メモを付けて、あんな本もあった、こんな本もあったと振り返れるようにしたいなあと思います。

 それでは!

1230日)


 2020年も残すところあと数日である。というわけで、2020年に読んだ中でも特に推したい本を紹介しようと思う。

 過去にも何度か触れたように、僕は「彩ふ読書会」という読書会に参加している。コロナの影響で3月以降読書会が中断しているため、このブログでは派生活動(哲学カフェ、同人誌づくりなど)の話ばかり書いている。しかし、読書会というからには本分はもちろん読書である。そして、僕自身について言えば、読書会がなくなってからも本は読んでいた。そんなわけなので、年末くらいはちゃんと本の話をしようと思う。そして、どうせなら、今年読んだ本の中で特に良かったものを取り上げたい。

 前置きはこれくらいにして、早速今年のマイベスト本を紹介しよう。それは、ピエール・バイヤールさんの『読んでいない本について堂々と語る方法』という本である。





 タイトルだけ見ると何とも胡散臭い。事実、あるZoom会でこの本の話をすると、参加者の一人から「ハッタリでもかますのかい?」というツッコミが返ってきたものである(同時に「いかにも君らしい」と心外なことを言われたので、「張り倒す」と言い返そうとしたら、うっかり噛んで「はったり倒しますよ」と言ってしまった)。しかし、挑発的なタイトルに反して、内容は実に丁寧な読書論である。

 本書の主張は〈本をバカ丁寧に読む必要なんてない〉という点に尽きる。もう少し詳しく言うとこういうことだ。

 本に何が書かれているかを完璧に把握できている人間なんていない。本に対する理解は、みんないい加減なものなのだ。だから、本について話す時には、その本を通して言いたいことを、臆せず率直に話せばいい。むしろそうすることが大事なのだ。

 このことを説得的に論じていくために、バイヤールさんはまず、「本を読んでいる」と「読んでいない」とは簡単に切り分けられるものではないということを説明する。1ページも開いたことのない本であっても、うわさ話などを通じて、本の内容や、売れているのかどうか、簡単か難解かなどについてかなりの情報を仕入れることがある。それは本を「読んでいない」状態なのだろうか? はんたいに、読んだことはあるはずなのに、内容を全く覚えていない本や、読んだこと自体を忘れている本がある。ではその本は「読んでいる」と言えるのだろうか? このように考えていくと、「読んでいる」とか「読んでいない」というのは簡単に説明できるものではなくなる。むしろ、ある本について全く何も知らない状態と完全に理解できている状態との間には様々な段階があり、僕らはそれぞれこの段階のどこかにいると考えた方がいいだろうと、バイヤールさんは言う。

 ここから見えてくるのは、僕らの本に対する理解は総じていい加減なものである、ということだ。もとより、ある本について完全に理解することなどあり得ない。どれだけ丁寧に読み込んでも、その理解の仕方は中途半端なものになる。バイヤールさんはその事実に開き直っており、本書でかなり詳しく論及している本についても「自分は流し読みしかしていない」と言っている。

 ここで、読者は本を曖昧にしか理解できないかもしれないが、作者は違うだろうと思う方がいるかもしれない。しかしバイヤールさんによれば、作者でさえ、自分が何を書いたかは往々にして忘れているという。僕自身、自分がブログで前にどんなことを書いたかなんて殆ど覚えていないので、これは全くその通りだと思う(だから、好きな作家のサイン会に行った時には、「〇〇ページの××という箇所が……」なんて詳しい話はせずに、ただ「良かったです!」とだけ言うように、なんてアドバイスが本書には出てくる)。つまり、繰り返しになるが、僕らは誰だって、本についていい加減な理解しか持ち合わせていないのである。

 重要なのはここからである。物事を中途半端にしか理解していないことは、一般には良くないこととされている。しかし、バイヤールさんはそうは言わない。むしろ、知や教養というものは、最初からそのような曖昧さの上に成り立っているものなのだと言い切る。お互いの抱える曖昧さを踏み荒らさないようにすることが、我々の世界における共通ルールなのだと。

 そして、本について語る際には、この曖昧さを逆に利用せよという。どれだけ読み込んでも本を完全に理解することはできないのだから、「この本に書いてあるのはどういうことか?」という問いに振り回される必要はない。大切なのは、その本を通じて自分は何を言いたいのかを見失わないようにすることだ。そうして、本を手段に言いたいことを言えばいい。その話が間違いだなどと言える人はいない。他の人だって、その本についてはいい加減な理解しか持ち合わせていないのだから。

 本の細かい内容に引きずられず、本を通して自分の言いたいことを言うことを、バイヤールさんは創造的であるとさえ言う。内容理解に終始する読書は受け身で機械的なものになる。そうではなく、本を使って自分でストーリーを組み立てて話す方が、よほど頭を使った創造的な営みであるというわけだ。更に言えば、そこで組み立てられたストーリーは本についての新たな解釈を生む可能性だってある。であるならば、それはその本についての言論空間そのものを更新するような創造性さえ秘めているということになるだろう。このように考えれば、自分の主張に従って本を語ることは、御都合解釈などと非難されるものであるどころか、むしろ望ましいものというべきであろう。

  以上が『読んでいない本について堂々と語る方法』の大まかな(そしておそらくは、僕にとって都合の良い)内容である。では、こうした本書の主張から、僕はどんなことを感じたのだろうか。

 一言で言えば、それは、本はもっと気楽に読んでいいんだな、ということだった。

 要約の途中でも触れたが、僕らは一般に、物事はきちんと理解しなければならないと思っている。本についても、ちゃんと読まなければならないと思っている。これまでの僕は、本を読む時、細かい所まで神経を尖らせて丹念に読まなければならないものだと思っていた。しかしその結果、だんだん自分の考えが本の内容に引っ張られていって、自分が本当に思っていること・感じていることは何なのかわからなくなることがしばしばあった。思い返してみると、それは結構しんどいことだった。

 本書は「そんなことはしなくていい」と主張している。それも、ただ言い放つだけではなく、様々なテキストを引用しながら、なぜ本を読まなくてもいいのか、というよりも、なぜ丁寧に読む必要はないのかということを説得的に論じていく。本を読まなくていい理由が、誰も本についていい加減な理解しか持ち合わせていないことにあるとわかった時、じゃあ僕の本に対する理解が中途半端なものだって構わないんだ、それを恥じなくたっていいんだということに気付いた。

 ある本について、印象に残ったことがあって、そこから思ったことや考えたことがある。でも、本の内容をちゃんと理解したとは言えないから、これは言わない方がいいんじゃないだろうか……。そうやって口をつぐむことなどないのである。たとえ流し読みの印象であっても、また、偶然耳に挟んだうわさ話の内容であっても、そこから浮かんできた、自分にとって確かなものは大事にした方がいい。読みが浅いことを気にせず、自分の解釈に自信を持て! そうやって背中を押してもらえたような気がした。

 本なんて無理に読まなくていいとバイヤールさんは言う。けれども僕は、本書を経て、もっと本が読みたくなった。それはきっと、僕の中で、本を読むことを難しく考えさせ、僕自身を身構えさせていた何物かが溶けていったからだと思う。

 さらに広く考えれば、本書を通じて僕は僕以外の物事に対する姿勢をより開けたものにすることができたのではないかと思う。沢山のものを見て、色んなことを考えるのを、もっと楽しんでいこう。そう思えるようになったのだ。このように、凄く前向きな開放感を持てたために、そして、その感動がとても大きかったために、本書は今年読んだ本の中でも特別な位置づけを持つものになった。

 本書裏表紙の紹介文には「すべての読書家必携の快著」とある。この言葉は本当だと僕は信じる。特に、本を読むことを難しく考え身構えてしまう方や、あまりに身構えてしまうために遂に本が手に取れないでいる方は、是非とも一度読んでみて欲しい。ちくま学芸文庫というレーベルから出ているだけあって、途中用語法が難解な部分があるが、そこは読み飛ばしていいと思う。僕も全て読み飛ばしている。もっとも、それが大きな問題にならないことは、本文をここまで読んでくださった皆さまには十分お分かりいただけるだろう。

     ◇

 『読んでいない本について堂々と語る方法』を、主に「本を通じて自分の言いたいことを言おう」という主張を紹介する形で振り返ってきた。ここで、本書におけるもう1つの重要な主張に言及しておこう。それは、本を理解しようとする時には、とにかくその本の全体像を掴むことが大切だというものである。

 ここでいう「本の全体像を掴む」ということのうちには、大きく2つの内容が含まれている。1つは言うまでもなく、本の内容を大まかに把握するということだ。細部に足を取られることなく、どういう内容なのかをざっくり把握すること。これが大切というわけである。そしてもう1つは、世の中に沢山ある本の中でその本はどんな立ち位置を占めているのかを掴むことだ。この立ち位置には、先に本についてのうわさ話を耳にするくだりで触れたような事柄が含まれる。すなわち、それは有名な本なのか、ニッチな本なのか。最近の本なのか、昔の本なのか。評価は高いのか低いのか(誰からの評価か、という点もポイントになるだろう)。もちろん、誰が書いた本か、どの国の本かという点も立ち位置を示すものだし、小説・評論・マンガ・絵本といったジャンルもそうだ。

 バイヤールさんが本の全体像を掴むことの大切さを訴えるのは、自分がやっていること(今の場合、その本を読むこと)の位置づけが分からなければ、自分自身を適切に方向づけることができないからだ。このことはひいては、本を語る時の戦略にも関わってくるだろう。有名な本とニッチな本とでは、話し方も違ってくるはずだからだ。

 話す場面のことをさらに考えると、その時の相手によっても話し方は変わってくるはずである。大学のゼミで課題文献について話す際には、本そのものの紹介は省いて内容の話だけをすればよいが、同じ本を市井の読書会で紹介する時には、まずそれがどんな本かを説明する必要がある、というように。このように考えていくと、全体像を掴めというバイヤールさんの主張は、本に限らず広い文脈で受け止める必要がありそうだ。

 僕自身の話をすると、全体像を把握することへの意識はこれまで非常に薄かった。僕はとにかく自分を愚直に生きていればいいと思っていた。本についても、ジャンルやポピュラーさへの意識は乏しかった。それではダメらしいというのも、本書から得た学びの1つである。

     ◇

 以上、今回は2020年のマイベスト本『読んでいない本について堂々と語る方法』をご紹介しました。これだけで終わってもいいのですが、今年僕が読んだ本の中にはこのような学術的・評論的な本だけでなく、小説も色々ありましたので、2020年のマイベスト小説もご紹介したいと思います。その話は次回ということにしましょう。それでは!

(12月29日)


 土日を使って何かブログ記事を書きたいなあと妄想していたのだが、他にやることが色々あったのと、それで疲れて何もしない時間を多く作ってしまったのと、予定外にいっぱい昼寝したのとで、結局何も書かないまま、日曜日の24時を迎えてしまった。だからといって長いことブログを放置するのも本意ではないので、今日気付いたこと・面白いなと思ったことを1つだけ書いておこうと思う。

 フリーフォントなるものがあることを、今日初めて知った。商用等でも無料で使えるフォントということだ。逆に言うと、フリーフォント以外のフォントは、商用で使う際にはライセンス料を支払わなければならないらしい。WordExcelに初めから入っているフォント以外使ったことがなく、そこにライセンスが紐づいているなどと考えたこともなかったので、色々と驚いた。

 Googleでフリーフォントと検索すると、該当するものをまとめたサイトが出てくる。試しに覗いてみると、これまで知らなかった沢山のフォントが紹介されていた。それらを見比べていると、なんだか面白いなと思った。文字1つ取っても、色んなデザインがあって、それぞれに特徴がある。好き嫌いを考えるだけでも面白い。なぜ好きか、なぜ嫌いかを考えるともっと面白いだろう(流石に細かくはやらないけれど)。そんなことを思った。

1227日)


 仕事の都合で郵便局へ行くと、いつもと同じ時間に来たはずなのに、窓口の前に列ができていた。年末は荷動きが激しいとよく聞くが、なるほど本当だと思った。

 列の整理のためだろう、「お客様、荷物の発送ですか?」と聞いて回っている郵便局員が一人いる。

「これを出したくて」
「では窓口が空きましたらどこでも結構ですのでお進みください」

 そんなやり取りが前の人と交わされ、僕も同じような受け答えをし、後ろの人の番になったところで、「レターパックを出すんですけど」という声が聞こえた。

 そこでふと、そういえば人生で初めてレターパックを出したのは、ちょうどこの時期だったなということを思い出した。

 大学2年生の時であるから、今から8年も前のことになる。12月から1月の初めにかけて、3年生から所属するゼミの選考があった。僕が受けたゼミでは、入ゼミ希望者に対し、課題図書のレポートと研究計画書をそれぞれ4千字書くという課題が出た。今はどうかわからないが、当時入ゼミ課題は大学にある教授の研究室に郵送する決まりになっていた。その時に初めてレターパックを使ったのである。

 8年も前のことだからうろ覚えだが、締切はちょうどクリスマスの頃だった。僕は余裕をもって計画的に行動するような人間ではなかったから、締切直前まで課題に追われていたはずである。やっとの思いで書き上げた文章を印刷し、当時住んでいたアパートの近所の郵便局から発送したのは、クリスマスイブの日だったのではなかろうか。

 そこまで記憶を辿ったところで、その前の年、大学1年生の時のクリスマスも、課題に追われていたことを思い出した。当時僕はフィールドワークをして論文を書く授業を受講していた。年内最後の授業で初稿を出すことになっていたのだろう、とにかくクリスマスの頃はアパートに籠って論文を書いていた。

 よくよく考えてみると、大学1年生の時の論文執筆の方が記憶が鮮明である。おそらくそれは、僕にとって初めての“華のないクリスマス”だったからだろう。

 クリスマスが近づくと、キャンパス中が浮足立つ。大学生たちは、クリスマス、というよりもクリスマスイブの晩に何としても予定を入れようと躍起になる。恋人同士はデートに行くということになっている。デートの予定のない者は、せめてもの埋め合わせに「みんなで遊びに行こうぜ!」と声を掛け合う。遊びに行く者だって結果的に賑やかなクリスマスイブを過ごすことになるのだが、それでも彼らは喧騒のうちに持てる者への嫉妬と持たざる己への悲嘆を滲ませる。大学生とはそういうものだ。

 そんな中、僕は喧騒からも遠く離れた場所にいた。その年のクリスマスイブは週末だった。関西から東京に出て、ひとり暮らしを始めて9ヶ月。元々知り合いはいないうえ、交友関係を広げるのは大の苦手。数少ない知り合いを遊びに誘う度胸はおろか、誘いに乗る度胸すらもない。そんな僕にとって、授業のない休日は平日よりも深刻な孤独地獄だった。それがクリスマスと重なったとなれば、ダメージはいっそう甚大である。

 僕は世間に迎合することを良しとしなかったし、だからこそ「クリスマス誰か一緒に飯行きませんか!?」という類の誘いにも乗らなかったのだが、その癖寂しさは人一倍大きかった。世間への反発が単なる強がりだったせいもあるだろうが、それ以上に、高校生の時まで実家で家族団欒のクリスマスを経験していたからだろう。クリスマスにはささやかであれパーティーをするものだという観念は、かなり強固だった。

 それがどうだ。パーティーどころか誰とも会わない。口すら利かない。買い出しに行ったスーパーで「いらっしゃいませ。798円です。ありがとうございました」と言われるだけ。あんまりじゃないか。おかしい。寂しい。

 腹の底にそんな思いを抱えたまま、僕は論文を書き続けた。住宅街に沈む夕陽を物悲しく眺めながら、夜までかかって論文を書いた。昼に何をしたかは覚えていない。しかしまあ、書いていたか怠けていたかのどちらかだろう。3日で書いた文字数は、1万字以上にのぼった。

 次の授業の時、僕は「クリスマスの間ずっとこれを書いてました」とわざわざ報告したものだった。担当の教授からはハハハという笑い声と、「まあそんなもんだよ」という言葉をかけられたと記憶している。

 とにかく、思い出の中の僕は、クリスマスイブの日によく何かしらの文章を書いている。上に挙げた2年だけではない。大学4年生のクリスマスイブには卒業論文を書いていたはずだし、修士2年生の時には修士論文を書いていた(修士論文の方はかなり記憶が鮮明で、夕方6時過ぎに新校舎のパソコン室にいたことまで覚えている)。年賀状に追われていた年もある。年賀状は文章ではないが、何かを書くという点はやはり共通しているようだ。

     ◇

 郵便局からの帰り道、僕は車を運転しながら、大学2年のゼミ試験と大学1年の論文執筆の思い出を、助手席の後輩に喋っていた。

「ようわからんねんけどさ、クリスマスになるとなんか書いてる気がすんねよな」

 最後に僕がそうぼやくと、後輩はフフフと笑ってから、

「元からそういうイベントなのかもしれませんよ」

 と頓珍漢に悪ノリしてきた。

「そんなわけあるかあ!

 僕の間抜けなツッコミが、車の中に響き渡った。

1224日)

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