これから暫く、イベントレポート系の記事が続くことになると思います。まず登場するのは、5月22日(土)に行ったオンライン哲学カフェの話です。

 哲学カフェとは、テーマを決めてみんなで考える集まりのことです。哲学の専門的な議論をするわけではなく、「友だちって何?」「お金は大事?」「自己肯定感とは?」など、身近なテーマを取り上げて、普段感じていることや考えていることを話し合う場です。そしてまた、他の参加者の意見・感想に耳を傾けながら、自分の考えを広げたり深めたりしていく場です。

 哲学カフェは全国で様々な方が主催していますが、僕が現在参加しているのは、彩ふ読書会のメンバーを対象にしたオンライン哲学カフェです。彩ふでは以前から派生活動の一環として哲学カフェを行っていましたが、コロナの影響で対面式の哲学カフェが困難になったため、ここ1年余りはメンバーを対象に、Zoomを使ってオンラインでの哲学カフェを行っています。

 会の進行は進行役が行います。対面式の場合、発言したい人は挙手をし、進行役に指名されてから話し始めるのですが、オンライン哲学カフェではビデオをオフにしている人もいるため、発言したい人は挙手の代わりに「はい、〇〇です」と名乗ることにしています(そうすると、発言した人のモニターの外枠が黄色く表示されるので、誰が話そうとしているかわかるのです)。一人の人が話し始めたら、その話が終わるまで他のメンバーはただ耳を傾けます。ちなみに、発言は強制ではないので、最初から最後まで聞き役で参加するのもOKです(実際オンライン哲学カフェにはよく“聞く専”の参加者がいます)。

 さて、オンライン哲学カフェはこれまで、土曜日の夜20~22時に時間が固定されていました。しかし、5月22日(土)の哲学カフェは、朝10~12時に開催されました。

 数回前の哲学カフェの後、研究会の会長であるちくわさんから「最近メンバーが固定化されてきているので、どうやったら他の人が参加してくれるか考えませんか?」という提案がありました。最初は「オンライン哲学カフェ」という看板をポップにする(華の哲学お茶会! みたいな感じで)、初心者限定の会を開催するなどの案が出たのですが、最終的に時間帯を変えるという、簡単ながら効果がありそうな案に落ち着きました。そんなわけで、いつもと違う時間での哲学カフェ開催ということになったのです。が……

 蓋を開けてみると、集まったのはお馴染みの方々ばかりでした。

 おまけに、いつもよりも人が少ない。

 オンライン哲学カフェにはだいたい7~8人、多い時には10人を超える参加者がいるのですが、この日集まったのはたったの4人でした。

 まさに大誤算。

 朝10時。参加者が揃ったところで、僕が真っ先に言ったのは、

「やります?」

 でした。途端に全員苦笑い。「いつものメンバー4人でやってもねぇ」と誰もが内心思っていたのでしょう。しかしその時、ちくわ会長から、

「やりましょう」

 と貫禄の一言がありました。その声を皮切りに、僕らは史上最少・4人での哲学カフェを始めることになったのです。

 そんなわけで、目論見が大きく外れる中、もそもそと動き出した今回の哲学カフェ。しかし、話し合いの内容はこれまでの哲学カフェに負けず劣らず濃厚なものとなりました。

 テーマは〈フィクション〉です。

 この言葉を見た時、僕らがパッと思い浮かべるのは、小説やマンガ・映画・ドラマなどの“創作物”ではないかと思います。実際、当日のやり取りも、最初のうちは小説や映画を念頭に置いた内容になっていました。しかしその後、話は思いがけず壮大な方向に転んでいきます。そして最終的に辿り着いたのは、〈我々はフィクションを抜きにして現実を見ることはできない〉という、矛盾したような認識でした。

 どうしてそんなことになったのか。これからその足跡を辿ってみたいと思います。

     ◇

 今回の哲学カフェは、〈フィクション〉に関連して話し合いたいことを出していくところから始まりました。「もしフィクションがなかったらどうなるのか?」と「フィクションを楽しめる限界はどこにあるのか?」という2つの問いが挙がり、後者の問いを巡って意見が出始めました。進行役を務めていた僕も、参加者として発言していきます。

「僕は小説の中でも、現実にある場所を舞台にした作品が好きなんですよね。ファンタジーとかSFとかは全然ハマらなくて。もちろん、そういうのが好きな人もいるので、人それぞれだとは思うんですけど」

 するとある参加者から、

「ひじきさん、ジブリ映画とかって観ます?」

 という質問が寄せられます。

「めっちゃ観ます! 大好きですよ」

 それから暫く経って、僕はハッとしたように言いました。

「僕の場合、自分の頭の中で映像が思い浮かべられるかどうかが大事なんだと思います」

 現実の場所が舞台になっている小説であれば、その場所のイメージをもとにして映像を思い浮かべながら読むことができる。ところが、ファンタジーやSFの場合、その舞台がどんな場所かを想像するのが難しい。だから僕はファンタジーやSFが苦手なのだろう。ジブリの場合は、最初から映像があって、想像力を働かせるまでもなく場面を観ることができるから、ファンタジーでも受け容れられるのだ。

 やり取りを通じて、僕はそんなことに気付き、それをそのまま言葉にしました。具体的な限界点はともかく、この〈映像を思い浮かべられると、フィクションを楽しめる〉という考え方については、他の参加者からも「わかります」という声が寄せられました。

 もっとも、僕は何も自説自慢をしたいわけではありません。ここで確認しておきたいのは、先にも書いた通り、哲学カフェの冒頭では、〈フィクション〉に関するやり取りは、小説や映画などの創作物、架空のキャラクターや場面設定が登場する作品を念頭に置いたものになっていたということです。

 それがどうして、現実認識の在り方の話へと転がっていったのか。

 きっかけになったのは、次の発言でした。

「そもそもなんですけど、フィクションって何のためにあるのかっていうのが気になってるんですよね。楽しむためのものなのかと」

 この疑問に対して寄せられたのは、フィクションの起源に関する話でした。フィクションは元から娯楽作品だったわけではなく、最初は宗教と関わりの深いものだったのではないか。いやいや、宗教以前に神話があったのではないか。そんな発言が出てきます。そこで僕らは、〈フィクションは何のためにあるのか?〉という問いを、次のような形で問い直すことになるのです。

 では、宗教や神話は何のためにあるのか?

 話し合いを通じて浮かび上がってきたのは、宗教や神話は、人々の力ではどうすることもできないような出来事の理由を説明することで、人々を慰めるものだったのではないか、という考えでした。答えのないもの、理解し難いものに説明を与えて物事を納得したいという欲求が、宗教や神話を生み出したのではないか、という意見も出てきました。

 当時の人々は、今のような技術を手にしているわけではありませんから、自然の動きを予測したり、天災に対処したりすることはずっと難しかったことでしょう。また、道徳や法律が定められているわけでもありませんから、見知らぬ者同士の間では闘争や略奪が絶えず、生き延びること自体大変だったのではないかと思います。そうした困難な現実に対処するために、物事の理由や道理を説明する神話というものが生まれ、共にある人々の間で共有された。僕らが思い描いていたのは、そんなかつての人類の姿でした。

 まさにこの時、僕らは〈フィクション〉と〈現実の捉え方〉とを結びつける橋を架けたのです。なぜって、最初のフィクションである宗教や神話が、なす術のない現実を説明するためのものだということを確認したのですから。

      ◇

 このことに特に着目し、〈フィクションによって現実が成り立っている〉ということを強調したのは僕でした(実を言うと、これには当日は語らなかった心中の伏線があるのですが、それについては後の方で話そうと思います)。僕は宗教や神話を手垢のついたおとぎ話のようには捉えず、当時の人々が世界を認識し、解釈し、意味づける基盤になったものとして考え続けようとしました。

 さて、現代社会において、当時の宗教の地位にあるのは科学です。科学は観察と実験に基づく客観的な事実を示すものと信じられており、それが見せるのは現実そのものだと思われています。しかし、僕はこれにさえ疑問を投げかけていくようになります。

 正直に申し上げて、僕も全ての科学をフィクションだと喝破できるほど厳しく鋭い視点を持つことはできません。しかし、科学というものが事物の実在を示してばかりいるわけではなく、むしろ幾つかのものを“ある”と想定することによって成り立っていることは間違いないと思っています。

 哲学カフェの中で実際にやった話ですが、中学高校の頃、僕は物理で習う「作用・反作用の法則」というものがどうしても上手く理解できませんでした。

 人が壁を押す=力を加える時、壁からも人を押し返す力がかかっている。壁を押す人がその壁の中にめり込まないのは、人が壁を押す力と、壁が人を押し返す力が釣り合っているいるからである。このように壁が人を押し返していることは、スケートボードに乗った人が壁を押したとき、壁が動くのではなく、スケートボードに乗った人が壁と反対方向に動くことからもわかる。

 僕にはわかりませんでした。壁が人を押しているということがどうしても理解できなかった。だって力を加えているのは人だけなのに……

 そうやって「わからんわからん」と言っていた時、誰かが(先生だったのか同級生だったのか、それさえもよく覚えていないけれど)こう言いました。

「反作用が働くって考えた方が、物事が上手く説明できんねん」

 その言葉が、僕の心を捉えました。そうか、作用・反作用の法則っていうのは、あくまで1つの考え方なのか。それがあった方が物事の説明がしやすいからという理由で持ち出されたものだったのか——

 力は目に見えません(これは反作用だけでなく、作用についても同じように言えます)。それが“ある”と断定することは、僕らには不可能です。ただ、力というものがあって、作用・反作用の法則というものが働くとした方が物事を上手く説明できるから、力はあるということになっているのです。このように考えると、力もまた、現実を説明するために持ち込まれた概念なのだということが見えてきます。

 僕は思うのです。ここでいう力と、神とは、何が違うのかと。そして、宗教や神話がフィクションなのであれば、科学もまたその根底においてフィクションなのではないかと。

 付け焼刃の考えで広げてしまったとんでもない大風呂敷を畳みに掛かりましょう。哲学カフェの中で僕が言いたかったのは、〈フィクションが現実を構成している——現実の説明・解釈・意味付けを担っている〉ということでした。そしてそれは宗教や神話の時代に限った話ではなく、現代だって変わらないということでした。

 哲学カフェの後半で「もしフィクションがなかったらどうなるか?」という、冒頭で出した1つ目の問いが復活してきた時、僕は意地悪にも(つまり、最初に質問が出た時に想定されていたフィクションが小説や映画のことだとわかっていながら)こう答えました。

「フィクションがなかったら、現実が崩壊するんだと思います」

     ◇

 〈フィクションが現実を構成する〉という話にどうして至ったのかという顛末を説明するようにして、哲学カフェの内容を紹介してきました。もっとも、ほとんど僕の考えを述べ立てるような書き方になってしまいましたが。哲学カフェの中で、〈フィクション〉の捉え方をぐるっと掻き回したのは確かに僕だったと思います。その僕が進行役を務めていたので、大変なことになってしまったというわけです。きっかけがどうだこうだと言っていますが、詰まる所僕が主犯でした。

 捉えどころのない話が続き、参加者はひとしきり頭を抱えていたように思います。ただ、終わった後で、「すごく哲学っぽい会だった」という感想だけが交わされました。

 さて、哲学カフェそのものの振り返りはここまでにしようと思うのですが、現実認識とフィクションの関係について、そして、僕自身が流してしまった創作物としてのフィクションのことについて、もう少し考え続けてみたいので、次回も引き続きフィクションについてお話ししようと思います。どうか懲りずに、いま暫くお付き合いくださいませ。

(5月26日)